第三話 小さな鉄と、初めての光

桜の蕾(つぼみ)がほころび始め、谷を流れる犀川(さいかわ)の水音が日に日に力強さを増していく頃。縁側(えんがわ)に差し込む春の陽射しは、冷え切った古い家屋を優しく温めていた。

佐多ばあさんから譲り受ける山羊の乳のおかげで、灰色の毛玉は順調に命を繋いでいた。最初は布切れに染み込ませていた乳も、今では健太が削り出した竹の匙(さじ)から、器用にちゅうちゅうと啜(すす)るようになっている。

「よく飲むようになったな。……で、そのちんちくりん、なんて呼ぶつもりだい」

裏の畑から戻り、手ぬぐいで顔の汗を拭いながら母の静子が尋ねた。 健太は、古い藁沓(わらぐつ)に古着の切れ端を敷き詰めた特製の寝床を覗き込んだ。灰色の産毛に覆われた体は、少しだけふっくらとしてきている。目の周りの黒い隈取りは、日が経つにつれてくっきりと浮かび上がってきた。

「小鉄(こてつ)、だよ」

健太は照れくさそうに、けれどはっきりとした声で言った。

「こてつ? また随分といかめしい名前をつけたもんだねえ」 「だって、あんなに冷たくなって死にかけてたのに、鉄みたいに頑丈に生き残っただろ。それに、毛の色も鉄瓶(てつびん)みたいな鈍い灰色だし」

縁側の端で、黙って小刀で竹ひごを削っていた祖父の源三が、ふんと鼻を鳴らした。

「……鉄は打たねえと強くならねえぞ。甘やかしてばかりじゃ、すぐに錆びちまう」

口調は相変わらずぶっきらぼうだったが、祖父の視線が一瞬だけ藁沓の中の小さな命に向けられたのを、健太は見逃さなかった。

それから数日後の、風の強い朝だった。 いつものように学校へ行く前、健太が山羊の乳を温めて寝床へ向かうと、小鉄の様子が少しおかしかった。いつもなら匂いを嗅ぎつけて「ミィ、ミィ」と鼻先を擦り付けてくるのに、今日はじっと身を縮めて、小さな顔を盛んに前足で擦っている。

「どうした、小鉄。お腹痛いのか?」

健太が心配そうに抱き上げようとしたその時だ。 固く閉じられていた瞼(まぶた)が、ぴくぴくと痙攣するように震え、やがてゆっくりと、薄皮が剥がれるように開いた。

「あっ……」

健太は息を呑んだ。 真っ黒で、濡れた黒曜石のような丸い瞳。それは初めて世界の光を捉え、不思議そうに瞬きを繰り返している。焦点はまだ定まっていないようだったが、その瞳には確かに、健太の顔と、煤(すす)けた天井の太い梁(はり)が映り込んでいた。

「母ちゃん! じいちゃん! 小鉄の目が開いた! 目が開いたよ!」

健太の弾んだ声に、土間(どま)で釜戸の火を熾(おこ)していた静子が慌てて飛んできた。

「本当だねえ。まん丸な、いい目をしてるじゃないか」

母の顔にも、自然と笑みがこぼれていた。

目が開いてからの小鉄の成長は、目覚ましかった。 それまでは藁沓の中で丸まっているだけだったが、外の世界への好奇心が、小さな体を突き動かし始めたのだ。

あるうららかな日曜日の午後。縁側に座る健太の膝の上から、小鉄が不意にずり落ちた。 板張りの上にぽつんと着地した小鉄は、少しの間、途方に暮れたように周囲を見回していた。やがて、短い前足をぐっと前に出し、おぼつかない足取りで立ち上がろうとした。

ぷるぷると後ろ足が震える。まるで生まれたばかりの仔牛のように、重心が定まらない。

「頑張れ、小鉄……」

健太は手を差し伸べそうになるのをぐっと堪(こら)え、息を詰めて見守った。 右足を出し、左足を出す。ペタンとお腹から崩れ落ちては、また這い上がり、四つの足で踏ん張る。小さな爪が、古い木の板をカシャ、カシャと微かに引っ掻く音が響いた。

三歩、四歩。 ふらふらと蛇行しながらも、小鉄は確かに自分の力で歩みを進め、そして健太の足元までたどり着くと、コテンと仰向けに転がって短い尻尾を振った。

「歩いた……! じいちゃん、小鉄が歩いたぞ!」

土間で草鞋(わらじ)を編んでいた源三は、手を止めずに低く唸った。

「騒ぐな。獣が自分の足で歩くなんざ、当たり前のこった」

そう言いながらも、源三が結んだ藁の端は、少しだけ緩んでいた。

健太は足元でじゃれつく小鉄をそっと抱き上げた。温かい毛玉の重みと、小さな心臓の鼓動。小鉄の黒い瞳が、健太をじっと見つめ返している。 春の風が、庭先の山桜の白い花びらを数枚、縁側へと運んできた。 信州の短い春が終わりを告げ、眩しい緑の季節が、すぐそこまで足音を立てて近づいていた。

(第四話へ続く)