第一話 春山の忘れもの
昭和三十年代も半ばを過ぎた、信州・安曇野の北外れ。北アルプスの険しい峰々がまだ真っ白な雪を戴いている頃、麓の村にも遅い春が訪れようとしていた。
沢筋に残雪がまだらに張り付く山道を、健太は黙々と登っていた。小学五年生になる健太の背中には、自分と同じくらいの大きさの背負子(しょいこ)が括り付けられている。息を吐くたびに、白い霧がまたたきもせず杉林の中に消えていく。
「健太、足元を見ろ。雪解け水で土が浮いとる。滑るぞ」
先を行く祖父の源三が、振り返りもせずに言った。源三の声は、この山で鳴る古い樫の木のように低く、そして硬い。 「うん、わかってる」 健太は短く答え、藁沓(わらぐつ)で慎重に泥を踏みしめた。
三年前に流行り病で父を亡くして以来、健太は学校が休みの日はこうして祖父の炭焼き仕事を手伝っていた。かつては腕利きの猟師だった祖父は、鉄砲を置いてからは、山の神に許しを請うように黙々と炭を焼いている。父がいなくなって広がりすぎた家の静けさを埋めるのは、パチパチと爆ぜる炭火の音と、祖父の厳しい咳払いだけだった。
炭窯(すみがま)のある小屋に着くと、二人は慣れた手つきで作業を始めた。窯から出したばかりの炭はまだ熱を帯びており、独特の香ばしい匂いが鼻腔をくすぐる。健太が煤(すす)で顔を黒くしながら炭を俵に詰めている間、祖父は次の炭の原木となるナラの木を切り出すために、鉈(なた)を腰に差してさらに奥の雑木林へと入っていった。
しばらくして、祖父が戻ってきた。手には何も持っていない。しかし、その顔色が険しいことに健太は気づいた。
「じいちゃん、どうしたの?」 「……妙なもんがおった」
祖父が顎で示した先、雑木林の藪の陰に、それは横たわっていた。 誰が仕掛けたのか、錆びついた古いトラバサミの罠にかかり、すでに冷たくなっている獣だった。タヌキに似ていたが、違う。尻尾には奇妙なしましま模様があり、目の周りには黒い仮面をつけたような隈取(くまど)りがあった。
「見たことねえ毛並みだ。隣村の奴らが言ってた、外国から来たっていう『あらいぐま』かもしれん」 祖父は忌々しそうに吐き捨てた。「人間が勝手に持ち込んで、捨てて、最後はこれだ。山の掟を知らねえ奴らが山を汚す」
健太は、その母獣の死骸から目を離せなかった。やせ細った体は、冬を越すのが精一杯だったことを物語っていた。 その時だった。風の音に混じって、微かな、本当に微かな鳴き声が聞こえた。
「ミィ……、ミィ……」
健太はハッとして、母獣の腹の下を覗き込んだ。そこに、小さな、握り拳ふたつ分ほどの灰色の塊が震えていた。まだ目も開いていない、生まれたばかりの赤ん坊だった。母親と同じ、しましまの尻尾が頼りなげに動いている。
「じいちゃん、生きてる。この子、生きてるよ!」 健太は夢中で手を伸ばし、その小さな塊を拾い上げた。掌に伝わる体温は、驚くほど熱く、そして儚かった。
「健太、置け」 祖父の声が響いた。「親が死んじまったら、その子も死ぬのが山の定めだ。人間が手を出していいもんじゃねえ。それに、そいつは日本の獣じゃねえんだ」
「でも! でも、このままじゃ凍え死んじゃうよ。お母さんもいなくて、こんなに小さいのに……」
健太の脳裏に、父が死んだ日の記憶が蘇った。冷たくなっていく父の手と、自分たちを残して逝かなければならなかった父の無念さ。この小さな獣の震えが、あの日の自分の震えと重なった。
健太は祖父の言葉に逆らうように、赤ん坊を自分の綿入れ半纏(はんてん)の懐(ふところ)に押し込んだ。直接肌に触れる小さな命の鼓動が、ドクドクと健太の胸に響いた。
源三はしばらく孫の強情な目を見つめていたが、やがて深くため息をつき、背を向けた。 「……勝手にしろ。だがな、山は甘くねえぞ。そいつを背負うってことは、山の厳しさも一緒に背負うってことだ。覚悟しとけ」
祖父の許しが出たことに、健太は安堵でへなへなと座り込みそうになった。 懐の中で、赤ん坊がまた「ミィ」と小さく鳴き、健太の胸に鼻先を擦り付けてきた。
(大丈夫、僕が絶対に守ってやるからな)
雪解け水が流れる音がいっそう大きくなった気がした。健太の、そして信州の山里の、忘れられない一年がここから始まろうとしていた。
(第二話へ続く)